上田耕平 ニチコン大野株式会社 社員

上田耕平は、コンデンサなどを製造する電子機器メーカー「ニチコン」で働く会社員。コンデンサ製造工場の生産を
管理しつつ班をまとめるリーダーであり、ともに働く社員からの信頼も厚い。

野球や音楽に燃えた

大野の陽明町出身。父方が、代々大野に暮らしてきた家系です。小学校4年の頃から少年野球をしていて、プロ野球選手になりたいと思っていました。クロマティや原辰徳がいた頃です。巨人ファンでした。でも中学の時にケガしてしまい、続けられなくなりました。

野球をやめ、高校生になってからは、音楽に目覚めました。ロックバンドの影響でギターを始めて、バンドを作って活動。漠然とですが、プレイヤーより、作曲家やプロデューサーのようなクリエーターになりたいと思ってました。それまで独学でやってきたので、音楽の専門学校に進もうかとも思いましたが、親や周囲の大人たちの勧めもあって、まずは大学へ進学しました。音楽活動は大学でもできるし、卒業してから学ぶこともできるから。迷いましたが、そう決めました。

大野を出ることに
何も感じなかった

大学は京都府の亀岡市にあったので、大野を出ました。その時は大野を出ることについて、何とも思わず。うれしくも、嫌でもありませんでした。将来、このまま京都で働くかもしれないし、大野に帰ってもいいし、なりゆきに任せようと。親はどう思っていたんでしょうね。兄もすでに大野を出ていたし、内心は帰ってきてほしいと思っていたかもしれないですけど。しかたがない、とあきらめているように見えました。

大学にはあまり行かず、アルバイトしたり遊んだり、楽しいことに夢中になりました。その頃の友達が「トヨタ86」に乗っていて、影響されて僕も車に興味を持つようになりました。京都の外まで、かなりアグレッシブに走りに行きましたね。そんな流れで、大学卒業後は、京都のタイヤやホイールなどを扱う店でアルバイトを始めました。足回りを交換したり、ちょっと車をいじったり。音楽よりも車の方がおもしろくなってきて、一時期、整備士になろうかとも考えたくらいです。

僕の「大野へかえろう」

その後も京都でいろいろなアルバイトをしてみましたが、どこも合わなくて、長続きしませんでした。そのうちにお金も底をつき、大野に帰ることにしました。25、6歳くらいの時だったと思います。親は、喜んでも悲しんでもいないように見えました。自然な感じで迎えてくれました。

仕事を探して、勝山の置き薬の会社に就職を決め、実家に住んで通いました。営業職は向いていないかもと思いつつ、一念発起して挑戦してみました。でもやっぱり難しかった。営業の相手は一般家庭の奧さんたちで、家々を訪問して薬を補充するのが仕事。補充だけじゃ儲からないからサプリとかも勧めるんですが、そんなに簡単には売れません。時間も不規則で、体力的にも厳しさを感じていました。

そんな折、ニチコンの社員だった父から、ニチコンに第二工場ができて社員を募集していると聞きました。父が、どういう意図で僕にニチコンの仕事を勧めたのかは分かりません。その頃の僕の様子を見て、転職した方がいいと思ったのかもしれない。自分が働いている会社だから安心だと思ったのかも。とにかく、僕もニチコンで働き始めました。

頼られて働く楽しさ

ニチコンは精密機器の部品である「コンデンサ」などを作っている会社です。コンデンサとは電気を蓄えたり、放出したりする電子部品です。 僕の勤務している工場では導電性高分子アルミ電解コンデンサを製造しています主に自動車の重要部品に多く使用されています。 最初は、コンデンサ製造の機械を操作するオペレーターになりました。入社して16年目ですが、今は班長として現場全般の管理や生産管理をしています。

班長の主な仕事は、その日の生産や人員の状況を把握し、その都度足りないものごとを見つけ出して対応することです。全体を見て、生産力が落ちないように調整しなければならない。そのためには、みんなが働きやすい環境をつくらなければならないんです。人の悩みを聞いたりするのも仕事ですね。やることが一杯で大変ですけど、毎日違うものごとに対応していく中で、誰かに頼られ、責任を持って仕事を進めていくことがおもしろいです。このまま、今の環境を維持できたらいいなと思います。

家庭も趣味も
充実した毎日

家庭は幸せだと思います。ニチコンに入ってから、友達の紹介で結婚しました。妻も一度大阪で暮らしてから大野に帰ってきた人で、そういった意味でも話が合いました。子どもは中学1年の子を筆頭に、3人います。家族全員が友達みたいで、なんかいいな、と思っています。

高校の同級生に誘われてバンドに入りました。同窓会でつながったのがきっかけ。矢沢永吉のコピーバンドで、ギターを弾いています。いい人ばっかりで楽しいです。ライブも年に3、4回やっていて、大野の平蔵でのライブはニュースにも映りました。若い頃のような気持ちでやってますけど、ライブハウスでの演奏はもう必死!うまいこと弾けないのがくやしいので、家でも練習しています。妻はライブを見に来てくれますし、家では子どもたちが、僕のライブを撮ったビデオの鑑賞会をしてくれます。バンドするまではあまり趣味もない感じでしたけど、今は楽しいですね。

外にはいろんな人がいる

観光とかじゃなく、ふるさとから離れたところで生活して、違う世界を見られたのは、いい刺激になりました。大野にはいないような人間が京都にはたくさんいて、人っていろいろだな、ってことが分かりました。今、ちょっと変わった人に出会っても、個性かなと感じられるようになったのは良かったですね。僕も自由にさせてもらってきたから、自分の子どもたちにも、無理に大野に残ってほしいとは思いません。

一方で、大野は人口が減ってきて、子どももだんだん減ってきている。このままじゃ大野からみんな出ていってしまいそうだなと不安に思います。

上田から、若い人たちへ

大野は、一番安心できるところです。自分の生まれ育ったところが一番落ち着くってことかもしれないですけど。大学生になって京都から初めて里帰りした時、家に入った瞬間、自然とニヤニヤしちゃうというか、すごく安心して、うれしい気持ちがこみ上げてきました。自分は家が好きやったんやな・・・と思った、そんな経験があったんですよ。

つらいこともありましたけど、自分にはふるさとがある、帰るところがあるというのは強みだったと思います。人生いろいろあるだろうし、疲れてしまったとしても、一番安心できる場所が大野にあるということを忘れないでほしいです。

  • 休日はもっぱらギターの練習!
  • 上田耕平

    1973年生まれ
    電子機器メーカー勤務

  • 年に数回、ステージに立つのも楽しい。

  • 休日はもっぱらギターの練習! 年に数回、ステージに立つのも楽しい。

  • 上田の経歴

    大野高校 → 大学(京都) → アルバイト生活(京都) → 置き薬会社(勝山)
    → ニチコン大野株式会社(大野)

  • 上田の一日

    7:00
    起床
    8:00
    始業
    12:00
    昼食
    20:40
    仕事終了
    21:30
    帰宅 晩酌して就寝

    夜勤の場合

    19:00
    起床
    20:30
    仕事
  • 上田の座右の銘

    あるがまま