前 勇一郎 鍛冶職人

前勇一郎は、鍛冶職人である。創業120年の鍛冶屋『安養寺屋』で日々、刃物の鍛造、修理に携わっている。
近年は販売経路をweb上にも展開し、顧客は全国に広がり始めた。

都会へのあこがれ

実家である『安養寺屋』は明治中期創業の鍛冶屋で、私で4代目になります。私が生まれ育った家は、仕事場と家が壁一枚で接していました。自室にいても父親が鉄を鍛える鎚音(つちおと)が聞こえてきましたし、境のドアを開ければ、作業する背中が見えました。大野には他に鍛冶屋がありませんし、特別な環境だったのでしょう、保育園の文集に私は「鍛冶屋になりたい」と書いていたみたいです。でも物心ついた頃や進路を考えるような時期には、家業を継ごうとは思っていませんでした。父も決して「跡を継げ」などと言いませんでした。「好きなことをすればいい。自分で決めればいい」とだけ。とにかく都会へのあこがれが強まるばかり。家を出たかった。都会に行けば何かあると思ったし、大野にいても、自分が何をしたいのか分からなかったんです。

何の考えもなく、大阪の技術系の専門学校に進みました。大学でなく技術系にいったのは、心のどこかで「いつか鍛冶屋になるんやないか」という思いがあったのかもしれない。意識はしていなかったけど、最終的な心の逃げ場というか、自分が帰る場所として、『安養寺屋』があったのかもしれません。

卒業後は一旦福井に帰ってきて親戚の営む会社に入りましたが、可もなく不可もなく、職場と寮を往復するばかりの日々でした。1年半ほどで退職し、単身、金沢に移りました。ひとりになりたかった。周りに知った人がいない環境に行きたかった。今思えば、何か「無心で打ち込めるもの」を求めていたのだろうと思います。そういったものは、田舎ではなく都会にしか存在しないものだと、当時の私は思い込んでいました。そこで数年フリーターで食いつなぎながら本当にやりたいことを探したのですが、それまでと同じで、そんなものは都合良く転がってはいませんでした。「家業を継ぐ」と決心したのは、そんな頃でした。

僕の「大野へかえろう」

大野に帰ってきたのは、22歳の時でした。やってみると、鍛冶屋の仕事は驚くほど自分に合っていました。組織の中で人と仕事をするより、一人で打ち込むスタイルが心地良かった。熱中できました。

自分でも分かっていなかったけれど、ずっと心のどこかで、家業を継ぎたいと思っていたんでしょう。父も口には出さないけれど、内心はすごくうれしかったと思います。鍛冶屋の仕事はすべて、見て、やってみて覚えます。まずは包丁を研ぐことから。包丁が満足に研げるようになったら、はさみや鍬(くわ)を研ぐ。ひととおり「研ぎ」を覚えたら、鋼(はがね)を熱し、たたいて鍛え、成型していく鍛冶仕事をやるようになりました。知れば知るほど、経験すればするほどに、ものづくりの奥深さをひしひしと感じます。早く一人前になって父を越えたいという気持ちが、私を支えています。

あらゆるオーダーに
応えることが楽しい

地元のお客さんは、農家や主婦の方がほとんどです。
春先は鍬がよく売れます。金属部の大きさや重さはもちろん、柄の角度に至るまで好みは細かく分かれます。お客さん一人ひとりの要望にできる限り応えられること、顔を見ながら心を込めた接客ができることは、個人商店の強みだと思っています。

鍛冶屋になって13年ですが、近年は一般的な刃物だけでなく、お客さんからの要望に応えて、新しい商品を作るようになりました。林業で枝打ち(良質な木材を作るために木の枝を落とすこと)をする人が木に登りやすくなるよう足につける「木登りガニ」、里芋掘り専用の道具「掘ったろう」などもそうです。「掘ったろう」は、粘土質の土から大量の里芋を掘るのが大変、という農家のお客さんたちの声からヒントを得て作り、大好評です。何度もテストして、土が挟まらないように、小さな力で掘れるように・・・など、改良を重ねて続けています。オーダー制作の刃物が思いどおりに仕上がったときや、修理品をお客さんにお渡しして「きれいになった」と喜んでいただけたときは本当にやりがいを感じます。

ときには、鍋やフライパンの修理を依頼されることもあります。「入れ歯が合わないから削りたいんや〜」と入れ歯を外しながら相談してきたおじいさんもいました。そんな畑違いな仕事でも、依頼されたものすべてに全力を投じ、技術に磨きをかけて、常に最善を尽くしたいと心がけて仕事しています。

ドラマの主人公が使う
小道具の製作依頼が!

最近、東京のテレビ局からの依頼で、ドラマの小道具として「鉈(なた)」 の制作を依頼されました。主人公の女の子が振り回す武器なんですけど、おもしろいですよね。

鉈が重要な小道具として登場するので、鍛冶屋の私は以前から知っていた作品でした。何やら縁を感じましたし、自分で作る鉈に誇りを持っていましたので、依頼が来たときはうれしかったですね。ドラマのスタッフさんから送られてきた細かい寸法図に合わせて、映像作品の世界の一部を作っていくという工程もおもしろかったです。

東京や大阪にいなくても、良いものを作っていれば誰かの目に止まるものだなと思います。地元のお客さんも大事で最優先ですが、どこかに未開拓の需要があるはず。他の人とは違うこと、新しい視点と技術を身に付け、発信していきたいですね。

前より、若い人たちへ

インターネットが普及した現代、起業を考えている人にとって、都会と大野の垣根は低くなっています。数十年前まで、小さなまちの小さな鍛冶屋のことを知っていたのは、ごくわずかな地元の人たちだけでした。

でも今、私やあなたが生きているこの時代は違いますよね。他の人とは違うアイデア、誰にも負けないスキルを身に付け、発信し続ければ、どこかで必ず誰かの目に留まります。それがあなたのお客さんです。私は20歳そこそこの頃、やりたいことも見つからず、ただ生活のためにフリーターをしていましたが、それも今となっては一つ一つが貴重な経験だったと思えます。大野を出てよかった。高校を出て、いきなり鍛冶屋になっていたら、やっぱり都会に行きたかったという心残りにずっと苛まれて、結局出てしまっていたでしょう。都会に身を置き、夢中になれるものが見つからず、模索し続けた日々があったからこそ、今鍛冶屋として長く続けられていると思います。結局答えは大野にあったんですが、一度大野を離れたからこそ、答えが正しかったと理解できます。失敗を恐れず、とにかく何でも興味の湧いたことをやってみよう。それでも何も見つからなかったときには・・・「大野へかえろう」。
それで、いいんじゃないでしょうか。

  • 休日の過ごし方
    家族でアウトドア!
    山小屋に行って、五右衛門風呂を作ることも。
  • 前 勇一郎

    1980年生まれ
    鍛治職人

  • ひとりでいたいときはテレビゲームを
    していますね。

  • 休日の過ごし方

    家族でアウトドア!山小屋に行って、五右衛門風呂を作ることも。ひとりでいたいときはテレビゲームをしていますね。

  • 前の経歴

    大野生まれ → 大野高校 → 専門学校(大阪) → 繊維会社(福井) → フリーター(金沢)
    → 『安養寺屋』の職人

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