長谷川 和俊 映像作家・デザイナー

長谷川和俊は、映像作家・デザイナーである。映像制作やグラフィックデザインだけでなく、大野を元気にするようなイベントの企画・実施なども行う。
彼の運営する『ホオズキ舎』は、「大野」そのものをデザインする事務所と言えるかもしれない。

気づいたら絵を描いていた

子どもの頃はやんちゃで、保育園では園長室にしょっちゅう正座させられるような日々を送ってました。小学校ではスポーツと絵を描くことが得意でしたね。授業中は、全然話を聞かずにノートに絵を描いてばっか。家族とか、周りの誰かが絵を描いてたわけでもなくて、自分が勝手に始めたって感じでした。

小学校の頃はドラゴンボールが流行っていて、スーパーサイヤ人とかのイラストをノートに描きまくってました。中学に入ってからは、ちょっとバンドに手を出して。高校ではDJをしてみたりもして、音楽にも足を突っ込むようになった時に、ヒップホップのカルチャーである「グラフィティ」に触れました。海外の壁にスプレーで落書きしてあるようなやつですね。ノートにグラフィティのモチーフを描きまくるのがとても楽しかったです。自分のアートの感覚が呼び覚まされた感じがして。そのうち、ライブとかイベントに使うチラシとかを自分で手描きでデザインするようになりました。

今でも覚えている
才能を認められた瞬間

自分で自分を不良とは思ってなかったけど、授業も聞かないし、大人からは「どうしようもない奴だなー」って思われてたんじゃないですかね。

高校の体育祭で、横断幕を描くという役割を自分からやりたいと言ったんです。で、描いてたらそこに美術の先生が通りかかって、「お前、コレ将来本気で考えた方がいいぞ」って言われたんですよ。その言葉が自分に突き刺さった。真面目な生徒じゃなかったから、先生も僕のことなんか嫌いやったと思う。けど、僕が必死に絵を描いてるのを初めて見て、なんかうれしそうやったし、その時の先生の顔は今でも覚えてる。そんな風に言われて「俺、こっちの道でいけるんかも・・・。」って思うようになったんですね。初めて客観的に、人に認められた瞬間でした。

でもまあ、そのまま高校を卒業して、父親の会社に就職しました。縫製、生地の輸出入、健康食品、土木など手広くやっている会社で、最初は雑務から始めました。オリジナルブランドの商品を作ったりしてたんで、「お前絵が好きだから、パッケージとかチラシとか、デザインしてみる?」って言ってもらえて。そこから、仕事でデザインをするようになりました。デザインソフトの勉強なんかはすべて独学でしたけど、そこでひととおりのノウハウを身に付けました。すごく売れたわけじゃないと思うけど、自分で作ったモノが世の中に流通することに喜びを感じ始めてました。

広い世界を見たくて、大野を出る

けど、自分は社長の息子。周りからも甘やかされてる感じがして、3年くらい働いた頃には、ここから抜け出したいって気持ちが半端なかった。ゼロから自分を見てくれる場所に行きたくて、仕事をやめました。父親は「何でや!」と言ってたけど、理由を伝えたら、そこまで反対もされませんでした。とりあえず、福井市にあるコンクリートの二次製品の会社に就職。2年間働いて、もう吸収するものはないと判断して、カナダに行きました!半分は「スノボがしたい!」もう半分は「世界を見たい!」って気持ちで。1カ月くらいカナダでリフレッシュして帰ってきたけど、無職。

今後どうしようと思った時、「これからはwebやな」という見込みがあったんで、今度は福井のWeb制作会社に。そこでの仕事は「作業」ばかりだったし、会社の体質も、僕には合わないと感じました。それで思い切って退職し、アメリカへ飛び出しました。

アメリカで見つけた
自由な生き方

アメリカでは、現地在住の韓国人兄弟の家にステイしました。兄がフォトグラファー、弟は家具のデザイナーという兄弟でしたが彼らの仕事をちょっと手伝う中で、大きな刺激を受けましたね。ここは僕にとってポイントでした。デザインとか写真とかで、楽しく自由に生活できるんや!ということが分かってうれしくなった。帰国して速攻、一眼レフを買いました。自分の楽しいことからスタートして、アメリカで感じたみたいな自由に生きていく方法を、自己流で始めたんです。

アメリカは大きな刺激だったけど、そこからニューヨークとか東京に進出してやっていこうとは思わなかった。「拠点」は大野以外、考えられなかったですね。なんでやろう?住む環境は大野しかないという想いが自然とあった。「大野愛」やね。

大野での野外フェスを企画したのも、大野が好きで、自分が楽しくできることだったからやと思います。企画して準備してってやっているうち、それがほぼ仕事みたいになった。合間にデザインの仕事をして、小遣い稼いで暮らすみたいな日々でしたけど、頑張ってた2年間で人のつながりがどんどん増えました。フェスは大成功で、もうやり切った感じで。一旦そちらは燃え尽きたけど、「大野のためになんかしたい!」という気持ちは変わらなかった。「じゃあ次はデザイン!大野で、デザインで食べていこう!」と思いたったのが27歳。イベントでできた人脈から仕事をもらって、自宅で作業してお金を稼いで・・・。事務所『ホオズキ舎』を立ち上げたのは29歳の時でした。

「ホオズキ」は英語で“lantern plant”。明かりを灯す、暗闇を照らす「ランタン」。僕にとってのデザインは「照らす」ことです。すぐそこに素敵なものがあるのに、闇にまぎれて誰も気付かない。自分のデザインやアイデアの力で、そんなものたちにスポットライトを当てられるような存在になろう。そして人の心にも、ポッとあたたかい光を灯していこう。そんな想いで、この名前にしました。

大野にあるもので、
今までになかったものを

『ホオズキ舎』は映像とデザインの会社ですけど、あらゆる意味でのデザインですね。大野を盛り上げるドキュメンタリーとか、イベント映像もあります。ウエディングのチームを作って、結婚式のプロデュースなんかもやっています。

都会と比べたら仕事量とか幅広さはないけど、大野でしかできない仕事があるから、やってる。今や大野のためにやってることが、人生の半分くらい占めちゃってます。だって大野にはまだ地元の人ですら気付いてない、良いところがいっぱいあって、それを照らし出すことで、新しいものを生み出せるから。大野にあるもので、今までになかったものを作る。それが僕のデザインです。

僕だけじゃなくて、大野でどう楽しんで生きていこうかって考えている人が多いかもね。人と人が近くて、コミュニティが出来上がってて、何かしようとしたらすぐに周りが響くのが楽しい。自然発生的に起こったことがどんどんつながる。「あっちがやってるからこっちも負けずに!」じゃなくて、あっちとこっちが勝手に一緒になっちゃう感じです。これからも、自分がやっていること、好きなことを大野に還元してそれで大野が盛り上がってくれるといいなと思います。

デザイナーとして、
自分に正直でいること

仕事で大切にしていることは、デザイナーでありながら、自分に正直でいること。自分が最良だと信じるデザイン、こうしてあげたいと思うことを100%出すようにしています。それでクライアントが嫌な顔をしたとしても、思うことを正直に伝えます。すごく難しいけど。「言うこと聞いてくれないんやったら他の人に頼むわ!」みたいに言われたこともあるけど、クライアントに正面から向き合っていれば、僕の熱が伝わるんだと思います。衝突するのはつらいけど、そこで妥協せずにできた仕事は、結果的にとても満足してもらえてると思います。

これが都会の事務所勤めなら、時間に追われて、「言われた通りにしちゃえ!」となるかもしれない。でも、大野でやってるんだから。自分に嘘をつかず、じっくり丁寧に。「デザイナーとお客さん」としてだけじゃなく、人と人の関係で、良いものを作っていくことを大切にしています。

長谷川から、若い人たちへ

仕事って、お金を稼ぐのがすべてじゃない。自分の時間をどう使うか。人生を楽しむことを第一に考えて、それがお金につながるかどうかは、ひとまずどっちでもいいんじゃないかな。僕も、アメリカとかで得た経験や刺激を、大野でどんな風にアウトプットしよう!?とワクワクしながら帰ってきた。そんな感じで、きっと大丈夫。今ちょうど、僕と仲間2人でまちづくりチームを作って、元町にコミュニティースペースをオープンしました。人とつながりたい、自分の力で何か起こしたい、大野のために何かしてみたいって思ってる人、一度覗いてみてほしいなと思います。

  • 休日の過ごし方
    休日は、今は家の改築をこだわってやってます(新婚)!
  • 長谷川 和俊

    1984年生まれ
    映像作家・デザイナー

  • 釣りも好きです。

  • 休日の過ごし方

    休日は、今は家の改築をこだわってやってます(新婚)! 釣りも好きです。

  • 長谷川の経歴

    大野東高校→父の会社に就職(大野)→コンクリート関連会社(福井)→カナダ→web制作会社(福井)→アメリカ→自宅で開業(大野)
    →『ホオズキ舎』設立

  • 長谷川の一日

    8:00
    起床
    9:30
    仕事へ
    撮影したり、デザイン
    したり。デスクワークも現場もあります。畑に行って
    水やりとかも。
     
    仕事が終われば帰宅。定時はありません。
    新居で好きなことをする
  • 長谷川の座右の銘

    Sense of wonder 長谷川 和俊